教育基本法 前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、心理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
そもそも、教育基本法に問題を感じたことはないが、かといって、多くの日本人がそうであるように、隅々まで読んだこともなかった。日本の教育制度に対する非難の矛先が教育基本法に向けられ、ここ最近は特に改正論議が盛んだ。教育基本法の何がどう改正されると日本における教育の問題が改善されるのかなど、教育基本法を改正する根拠がまともに示されないまま、議論の背後に隠れている改正論者の思惑に踊らされることほど恐ろしいことはない。そこで、まずは全文を読むことにする。
読売新聞によると、「現行法に対し『個人の権利尊重に偏りすぎている』などの批判があることを受け、『公共の精神を尊ぶ』と公共心の育成の必要性を明記した」とある。つまり、今以上に個人の権利よりも公共の利益を優先すべきだということだ。
公共事業に大きく依存する北海道では、これまでも開発によって個人の権利が踏みにじられて来た。最近、二風谷には何度か訪れ、チプサンケにも参加した。アイヌの聖地であるこの地は、現在ダムの底である。
最近ではプライバシーの問題など、個人の権利と公共の利益の対立の構図として描かれるものが、他にもいろいろあるだろう。しかし、「公共」とは何だろうか。これまでの議論では、「公共」が指すものが「国民」ではなく「国家」であることのように思えてならない。国民の基本的人権の保障もできない国家であるにもかかわらず、どうして『個人の権利尊重に偏りすぎている』と言えるのだろうか。日本は経済大国と言われながら経済的理由による餓死者を出していることを知っても、この改正案に賛成するだろうか。それとも、この改正によって生活保護制度が改善されるとでも言うのだろうか。今こそ、自分にとっての「公共の利益」というものを考えなければいけないと思う。
| 固定リンク | 0
コメント