教育行政に失敗しているアメリカを真似るのがそもそも間違い
今朝のNHKニュースによると、「アメリカの学校で行われている『ゼロ・トレランス』、『寛容さのない指導』と呼ばれる、学校の規則とこれに違反した場合の悪質性に応じた罰則の基準を明確に定めることが必要だ」という報告書を文部科学省の専門家会議がまとめたそうだ。
1999年に起こったコロンバイン高校銃乱射事件は、まだ記憶に新しいのではないか。マイケル・ムーア監督による「ボーリング・フォー・コロンバイン」やガス・ヴァン・サント監督による「エレファント」などのように、この事件が題材として映画化されている。この事件を考えるだけでも、アメリカの教育行政を真似て「ゼロ・トレランス」を導入することによって、日本の「子どもの凶悪な事件」を防げることは疑わしい。
罰則を強化すれば、子どもはますます追いつめられるのではないだろうか。子どもがどのような状況に追い込まれて事件を起こすのか、大人は本当に理解できているのだろうか。少年法の「改正」とも結びつけて、真剣に考えなければいけない。子どもの視点に立って。
| 固定リンク | 0
コメント
文部科学省とそれに属する専門家集団はひどい報告書を書いたもんだね。
>学校の規則とこれに違反した場合の悪質性に応じた罰則の基準を明確に定めることが必要だ」という報告書を文部科学省の専門家会議がまとめたそうだ。
→悪質性をどう一律に基準化するのだろうか。一律の基準など設けられない教育や子どもたちの心の問題に対して、一律の基準を設けるというのは、そもそもが間違いだと思う。何か問題が起きたときに、問われる自らの責任の回避と、国民の効率的な管理・統制が国や文部科学省の正直な腹の内ではないだろうか。
少年犯罪と向き合う上で大切なのは、ただ単に子どもたちを規則で縛り、罰則を強化することではなく、
>子どもがどのような状況に追い込まれて事件を起こすのか、
を教育現場や地域社会で考え、予防に努めることだろう。そのためには子供一人一人と向き合うことが必要なのだが、一律の基準を設けることは、それと180度反する行為になっている。
本来、大人に対して相対的に子供の刑が軽いのは、子供の「教育可能性」に重点が置かれているからだろう。子供は周囲からの影響を受けやすいため、過ちを犯しやすかったりもするが、その一方で、大人に比べ修正力も強い。罪が軽いわけではないが、刑が軽い理由はこういう理由からだろう。そのことを周囲が理解していなければ、子供に対する厳罰化はいっそう加速するものと思われる。
失敗学という言葉があるが、人はそもそも失敗しながら成長していく。刑罰が厳しいために、子供の頃から失敗だけをしないで生活し、一度も失敗せずに外見だけ大人になっているような人間が、実は一番恐ろしい。今回の文部科学省の報告書は、そのような人間をつくりそうだ。
増加する少年犯罪と向き合っていくために必要なことは、刑罰に対して恐怖を抱かせることや効率的な犯罪の処理ではなく、時間をかけてこども一人一人の心の中に入り込む教育だ。それによって、子供は他人の気持ちや、やっていいこと悪いことを、経験のうちに主体的に判断・理解するようになるはずだ。大人になるということは、そうやって段々と、
分別がつくようになることだと思う。
投稿: toriton | 2006年5月23日 (火) 18時42分
確かに、子どもは失敗を繰り返しながら学んで行くという点が重要だと思う。普段から少しずつ感情を外に出し、時には失敗することで、怒りなどの感情を制御する方法を学んで行く。ところが、親や教師が理想の子ども像を一方的に押しつけるため、子どもは優等生を演じようとする。すると、そうした大人しい子どもほど感情を制御しきれなくなったとき、一気に爆発して取り返しのつかない大きな失敗を犯してしまうのだろう。
罰則を強化されるのは、むしろ、汚職や労基局から勧告を受け続けている企業の方だ。彼らは理性的で狡猾なのだから。
投稿: H本 | 2006年5月24日 (水) 21時58分
>...snip...
>感情を制御しきれなくなったとき、一気に爆発して取り返しのつかない大きな失敗を犯してしまうのだろう。
→たぶん、それが最近多い「キレる」という現象なんだろう。キレた子どもは異常者扱いで、ただ基準に応じて機械的に処理(少年院に送り込むなど)される。しかし、多くの場合、なぜキレたのか、とうことは永遠の闇になっていて、社会の多くの大人たちが今の子ども達の心がわからなくなっているようだ。
実際、「最近の若者のやることはよくわからん。理解に苦しむ。困ったものだ。テレビゲームばかりやってるからおかしくなってるんだ。」などという不満の声が、街角の大人たちからよく聞こえてくる。
これは、規則で子どもたちを縛り、偏差値でランク付けし、中身の教育が進んでいない今の社会の現状を考えると当然と思う。子どもは社会を映す鏡と言われるが、子どもの心の闇を考えることは、社会の問題を考える上でもとても重要だろう。世の中がおかしくなってるとき、真っ先に、そのしわ寄せがくるのは子どもたちなのだから。
投稿: toriton | 2006年5月25日 (木) 12時02分