「ヤブ医者」の処方箋
講演会で面白かったことは5号館のつぶやきに詳しく書いてあるけど、私の方からちょっと補足します(山口さんの真似)。
刈谷さんの著作を読んだことがないので、今回、初めて医療に例える「教育改革の論じ方」を聞いた。それは、「いじめ」問題、「未履修」問題、「学力低下」問題,教師の不祥事、若者の規範意識・公共心の欠如、フリーターや「ニート」の増加,格差の拡大と固定化など、日本の教育の問題としてあげられるものをちゃんと診断しているのか、という批判をすることだ。さらに、ここでは、そもそも診断をする「医者の腕前」は確かなのか、ということまで考えなければいけない。このままヤブ医者に治療を任せていいのか?
これまでの日本の教育で、「ヤブ医者」によって、特に最近、次々と出された処方箋はポジティブリストらしい。つまり、良さそうだと思うことは全部やるということだそうだ。例えば、基礎基本、発展的な学習、「自ら学び,自ら考える力」、「徳育」「豊かな心」「国や郷土を愛する態度」、小学校からの英語の必修化というように、それらの処方が実現可能かどうかに関わらず、良さそうならとにかく何でも詰め込むのが、「ヤブ医者」のやり方だ。もちろん、「徳育」が良さそうだと思うのは、一部の人たちに限られるかもしれないけれど。
そんな「ヤブ医者」に言われるがまま、出来もしないのに無理矢理やって、そのしわ寄せが新たな問題を生んでいる日本各地の教育の現状に対して、犬山市の教育委員会では出来ないことはやらずに、できることだけやってちゃんと成果を上げているという。そんな犬山市だからこそ、全国で唯一学力テストに不参加だったわけだ。それでは、それ以外の教育委員会は、「ヤブ医者」の処方でどんどん悪化する病気の一つでしかないのだろうか。治療される側なのか治療する側なのか。
犬山市教育委員会は、市民が支持する石田市長と連携して、今まで成果を出して来たそうだ。「ヤブ医者」の出先機関としてではなく、地方自治の要として教育行政を市民と共に行う教育委員会に変えていくには、やはり市政への積極的な市民参加が不可欠なのだろう。「ヤブ医者」をまともな医者に替えさせることをだって、市民に出来ないことはないはずだけれど。正しい診断と、それに基づいた処方を行えるようになるまでは、険しい道程が続いているように思える。
ところで、去年の教育基本法の「改正」に加えて、今国会で教育関連三法の「改正」が決まってしまったことに対して、今こそ司法の力が求められるのではないか、というようなことを刈谷さんは話していた。憲法はまだ変えられていないことに触れていたので、具体的には違憲立法審査の可能性を言っていたのだと思う。けれども、つい先日、東京地裁の判決があったように、とても司法には期待できないような状況だ。誰もが感じているように、三権分立が形だけのものになりつつある今の日本では、司法の判断を待っている間に、「ヤブ医者」に棺桶に送られてしまう気がする。
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