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滑らなくても良い理由

 中でも最も難しい判断を強いられるのは、滑るという目線で斜面を眺めた場合である。それが魅力的な斜面であればあるほど難しい。斜度、雪質、最高に気持ち良いだろうという期待感。斜面が良さそうに見えるほど、その裏には危険が潜んでいるのも事実である。
 そんな感情を抱きながら、目の前の斜面を滑らない理由を見つけることは困難だ。だから自分は、その日のゲスト、そして自分自身を守るために、目の前の斜面を滑らなくても良い理由を最後まで探し続けるのである。

この文章は、パウダージャンキーならシーズンインの頃に誰もが手に取るはずの雑誌、「Fall Line」に掲載された江本悠滋からの寄稿「国際ガイドのスタンダード - 僕達は守られていない。」における最後の部分だ。

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毎年1冊ずつ出版されるFall Lineのいいところは、パウダー滑走や冬山への期待をかき立てる写真が満載なだけではなく、冬山の危険性についても触れていることだと思う。そして、Fall Line 2008では、「判断と行動の理由」と題して、5人の滑り手からの特別寄稿集を掲載している。その冒頭には、次のような文章が添えられている。

ご承知の通り、先シーズンは例年になく雪崩事故が多く起きました。本来あってはならないことですが、ヘリスキーやガイドツアーでも雪崩による死亡事故が起こっています。これらを地球温暖化からくる気象条件の変化を理由にする向きもあります。でもそれでは、私たち滑り手にとって何の問題解決にもなりません。今さら言うまでもありませんが、雪山を滑るという行為は、常にリスクを伴います。100%の安全はなく、判断を誤れば大事に至ります。それでも私たちは滑りたいし、滑り続けることで人生を豊かなものにしたいと願います。そのためには、できる限りリスクを減らして、安全性を限りなく100%に近づける努力が不可欠です。信頼できるガイドツアーに参加するのも、そのひとつです。しかし、その「信頼」とは、何を根拠に、誰が判断するのでしょうか。結局のところ、自身の判断力を高め、危機回避能力を上げるしかありません。逆に言えば、判断力があれば信頼できるガイドも選べるし、有効な活用法も見えてきます。先を読んで考えて、判断して行動する。そのためには正しい情報を集める力も必要です。そして、雪山はいついかなるときも危険なわけではありません。本誌では、雪山の最前線で活動する5人の滑り手に原稿を依頼しました。雪山に足を踏み入れる頻度の多い彼らが現場で何を考え、どんな判断を下しているのか。その判断と行動の理由に着目してみたいと考えました。

無責任にパウダーの魅力を宣伝して滑り手を煽るのではなく、近年の雪崩事故の増加に警笛を鳴らしている点は評価できる。ただ、残念なのは、せっかくの特集なのに、全部で150ページ近くにもなるこの雑誌でも、91ページまで頁をめくってようやく現れる。きっと店頭で手に取って眺める人たちは、「Photographer's Gallery 2008」には目を通しても、後半まではなかなか読まないだろう。個人的には、「判断と行動の理由」をもっと前に持って来て欲しかったと思う。

その「判断と行動の理由」の中で、もっとも自分の興味を引いたのが始めに引用した部分だった。彼は「最難関といわれるフランス国立スキー登山学校(ENSA)のガイドコースをクリアして、日本人として初めてフランス国家山岳ガイド資格を取得」したとプロフィールに書いてある。資格があれば信用するというのが権威主義の日本人の悪いところだけれど、「正確な情報を提供する機関や、高いレベルのガイドを養成し、一定の基準を設けた資格制度作りに力を入れてきた」フランスの資格だからこそ、信頼に足る説得力がある。「古くから登山に理解の深いフランスやスイスでは」、「危険が多い場所だからこそ、行政が主導して犠牲者を減らす仕組みを作ってきたのだ」そうだ。

ENSAで彼は、「スイスの研究者から雪崩を予測する計算式を学んだ」らしい。「当時スイスはすべてこの計算式に基づいて判断していた」そうだが、「近年フランスでは、『まったく同じコンディションの斜面で1000回滑れば1度は雪崩が起こる』とする雪崩学者の発表」があり、「雪崩を予測するのではなく、大きな事故にならないように個人個人が予防するという考え方」に変わったという。このことを踏まえて彼が日本の状況について語る口調は、次のようにとても厳しい。

 スイスのように計算式によるシステムで最終的な判断を下す方法と、フランスのように個人の判断やモラルに委ねるという2つの方法。これはどちらが正しいかというということではなく、雪山で遊ぶ歴史があるヨーロッパで、この2つが両立していることに注目したい。思うに両方とも大切なのだ。そして、日本はといえば、システムもなければ、モラルもない。

日本の酷い実情は、寄稿のはじめで具体的に語られている。

 日本には欧米のようなスタンダードはなく、行政に意欲があるとも思えない。その一方で、山岳ガイドで生計を立てる人は年々増えている。だが、決まった資格を取らなければ仕事ができないわけでもないし、技量や経験、知識をチェックする仕組みもない。引率する人数も制限されていないし、料金の基準も定められていない。それぞれが個人レベルで、自分なりのやり方でガイドしているにすぎないのだ。

欧米と比較した日本のこうした実態を知ると、近年の日本における雪崩事故の増加が、いかに行政の不作為によるものかということが分かる。北海道ではコース外滑走による事故がたびたび報道される。ニセコ東山スキー場では雪崩コントロールによって、こうした事故を減らそうと試みているが、そこでも責任論に終始する行政の姿勢が障害となっているようだ。では、雪崩事故の増加をこのように行政の不作為を理由にしたところで、「私たち滑り手にとって何の問題解決にも」ならないのだろうか。「自身の判断力を高め、危機回避能力を上げる」ことが必要なのは確かだが、理由が分かれば、それの理由に応じた対策を講じることが出来る。「判断の理由と行動」なのだから。

雪崩事故の増加の理由が「地球温暖化からくる気象条件の変化」なら、滑り手にとって明らかに「不都合な真実」なのだから、地球温暖化を防ぐための取り組みをすべきだ。同じように、行政の不作為が理由なのだとしたら、行政に雪崩事故防止の取り組みをさせるよう働きかけたり、しっかりと取り込む行政に変えるべきだ。雪崩の判断にシステムとモラルの両方が大切だったように、個人レベルと行政レベルの対応の両方が大切なのだと思う。この2つを両立させることが、これからの日本の雪崩事故防止の課題なのだと考える。これは上ホロ雪崩報告書のエントリーで行った議論の結論の一つでもある。

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このことを理解した上で、個人として「判断力を高め、危機回避能力を上げ」たいと思う。寄稿には、彼がどうやって判断し、行動しているかが語られている。冬山に入るなら読むことを勧める。「目の前の斜面を滑らなくても良い理由」を見つけることができれば、雪崩事故の危険を回避できるはずだ。

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コメント

長かったので、最後の方のこの部分↓

>雪崩の判断にシステムとモラルの両方が大切だったように、個人レベルと行政レベルの対応の両方が大切なのだと思う。この2つを両立させることが、これからの日本の雪崩事故防止の課題なのだと考える。

まったく同感。

この行政レベルの対応っていうのは、かなり幅広い方法があるね。ガイドの育成や資格制度の導入などもそうだし、広く言えば、学校や地域での自然教育、科学啓蒙も含まれる。どれも、日本雪崩ネットワークの「意志決定のピラミッド」の底辺を大きくする取り組みだ。お金のかかるものから、そんなにかからなくてもできるものまであると思うので、頭を使っていきたい。

個人レベルの対応については、あくまで個人が気がついてやることなので、個人が気づいて自主的な対応をとれるように支援をするのも行政レベルの対応になってくるはずだ。だから、個人レベルの対応と行政レベルの対応は、等価・並列の間柄じゃないと思われる。行政レベルの対応が十分ではないことが、個人レベルの対応を遅らせてしまうことも十分考えられる。行政レベルの対応はいつだって問われるべきことなのではないだろうか。故に行政の仕事はやりがいがあるのだけど、最近の行政は、ほとんどの仕事を民営化にしようとしている。何か問題があっても、これからは、それは個人レベルの問題にされてしまうかもしれない。真の意味での両立が問われていると感じる。

投稿: O | 2008年2月 7日 (木) 17時20分

行政レベルの対応について何かいいアイデアが思いついたら教えてよ。

話は逸れるけど、行政レベルと個人レベルとの関係について、真っ当な民主主義が行われてたら、2つはまさに並列というか両立して、協調、補完し合うものだと思うよ。順序で言ったら、むしろ逆に、個人レベルの責任が問われるべきだと思う。行政の公権力っていうのは、主権者によって与えられたものだから。今はそれが逆立ちしてしまってる。突き詰めると、今の日本がダメなのは日本人がダメだから。ダメなままの日本人がいくら民主主義の真似事をしたところで無駄。行政のせいにはできない。

投稿: H本 | 2008年2月 7日 (木) 21時14分

>話は逸れるけど、行政レベルと個人レベルとの関係について、真っ当な民主主義が行われてたら、2つはまさに並列というか両立して、協調、補完し合うものだと思うよ。

そもそも行政に個人は責任を負っているのが民主主義だから、文字通りいくと、H本の言い分は正しいと思った。「行政を動かす個人の責任は重い」ということだね。

>真っ当な民主主義が行われてたら、…snip…

民主主義の場合には、行政っていう言葉が使われるけど、共同体が個人を支援するのが個人にとっても、また同時に共同体にとっても有益なものであるから、そこに(行政が)やるべき役割が出てくるのだと思う。この役割を別の言い方をすると行政レベルの責任なんだと思う。一方、ここでいう個人レベルの責任って、あくまでもその人自身の問題を指すと思うので、両者は並列(同じレベル)の関係ではない気がする。両者のもつ意味合いが違うことに注意しないと、使い方を混乱してしまいそう…。

真っ当な民主主義…これが機能していれば問題も少なくなるのに!

投稿: O | 2008年2月 8日 (金) 20時18分

書き方が悪かった。「並列」という言葉はOが使っていたのでそのまま引用しただけで、「両立」というのが自分の考え。繰り返すけど、個人レベルと行政レベルの両方の対応が必要だという意味だね。

雪崩事故防止を例にすると、個人レベルで雪崩の勉強をしたり安全のための道具を用意したりすれば、行政レベルで行う雪崩講習のような取り組みも効率よく行うことが出来るはずだと思う。逆に、行政レベルで勉強の必要性を訴えたり道具の購入を補助すれば、個人レベルの対応が進む。そういう意味で、個人レベルと行政レベルの対応が相乗効果を上げる可能性があると同時に、足を引っ張り合うことにもなりかねない。日本は……。やばいね。

投稿: H本 | 2008年2月 8日 (金) 21時50分

同感。両者は、相乗効果がある反面、責任問題になると、足の引っ張り合いみたいなのもあるから、いつもそのバランスに注意が必要だと思う。事故の当事者やその家族とか遺族はしかたがない面があるにしても…、少なくとも周りにいて、助言できる立場の人間は、目先の結果ばかりに流されないような視点を持ちたい。

投稿: O | 2008年2月 9日 (土) 12時36分

バランスが大事だよね。

投稿: H本 | 2008年2月 9日 (土) 17時20分

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