しらおいポロトコタン
樽前山からすっかり降りて来ると、苫小牧市内へ入った。下界は結構暑い。山に登り損ねて、側溝にハマって気が滅入り、もうのんびりしたい気分だった。とはいえ、このまま帰ってはもったいないので、白老へ行って、また温泉に入ってゆっくりくつろごうと思った。
白老といえば、しらおいポロトコタンがあるのを思い出した。ポロト温泉には行ったことがあって、前から気になっていた施設だ。
ガラガラの有料駐車場に車を停めた。アイヌ民芸店が集まる建物を通り過ぎて、奥のポロトコタンへ向った。入場料は安くないけど仕方ない。JAF割があるみたいだったけど。
館内へ入ると、ちょうど建物の中で話と踊りが始まるところだったので急いで向った。でっかいチセの中にはステージがあり、客席には30人くらいが座って話を聞いていた。アイヌの衣装を着たおじさんが、綾小路きみまろ風にトークを繰り広げていた。人によってはちょっとウザいなぁと思いそうだけど、やっぱりおばちゃんたちにはウケていた。
道外からの観光客も多いので、登別や芦別といった、ベツやペツが含まれる地名についての解説があった。道産子なら誰でも知っていると思うけれど、ベツやペツというのはアイヌ語で川という意味。登別は濁った川というアイヌ語の当て字らしい。旭川、深川、滝川なんかの石狩川流域の街の名前は、ベツの意味まで漢字にしてしまった地名ということは、たぶん有名なんじゃないだろうか。
チセの中には、立派なシャケが何本も吊るされている。「どこから来たと思うか?」という質問に、会場からは、海、川、養殖場という答えが返ったけれど、正解は市場だった。養殖場は別として、海や川というのは考えそうなものだけど、市場というのには歴史があるそうだ。つまり、元来狩猟民族だったアイヌは、今では海や川でシャケを獲ると捕まったしまう。日本政府が勝手にアイヌからシャケを獲る権利を奪ってしまったからだ。吊るされていたのはシャケの薫製で、アイヌは薫製の作り方は代々伝えているけれど、シャケを獲る技術は伝えられなかったということだ。先住民としての権利をちゃんと保障するべきだろう。ちなみに、薫製は美味かった。
アイヌの碑 (朝日文庫)
著者:萱野 茂 |
話の後は、アイヌの楽器の演奏と歌と踊りだった。ムックリは二風谷でも何度か聴いていたけど、樺太アイヌのトンコリを生で聴くのは初めてだった。ムックリの演奏は、アンビエント系テクノのようで、斬新な感じだった。実はムックリはかなりカッコいい楽器なんじゃないだろうか。ムックリに代表されるように、北海道のアイヌには音階がなかったと思うけれど、樺太アイヌにトンコリのような弦楽器が伝わっているのは、大陸からの強い影響だろうか。素朴な音色だった。
歌は意外とポップな感じの曲だった。アイヌの歌ってこんな感じだっただろうか。踊りは二風谷で見た踊りに似ている。輪になって踊るのが基本なのかな。そういえば、二風谷のチプサンケは今週だなぁ。毎年20日が本番だったはずだけど、観光客を呼ぶために日曜日の開催に変更したのかな。
ポロトコタンには、アイヌ民族博物館という立派な展示施設もあるので、そっちもちゃんと見物する。アイヌの生活について一通り詳しく解説してあるので勉強になる。展示を見ていて思ったのは、かつてアイヌは倭人とそこそこにいい関係で生活していたのではないかということ。アイヌが使う輪島塗などの漆器類は物々交換で得たものらしい。白老のアイヌが海で漁をするときに使っていたという船も、日本の船のように見える。明治政府に奴隷としてこき使われるようになるまでは、シャクシャインの戦いもあったけれど、ずっとマシだったんじゃないだろうか。日本人の西洋かぶれが、西洋人と同じように先住民を支配する傲慢な考え方になってしまったのだろう。
もう一つ、やっぱり狩猟民族が貨幣経済と離れて生活するのが、環境との調和という観点では最も適している気がした。農耕で貨幣経済となると最悪だ。貨幣を得るために際限なく生産して、余れば捨てるという大量生産、大量消費、大量廃棄の現代社会へ通じる道だと思う。おそらく、アイヌがアイヌのままでいられたなら、日本が沈没しても道連れにされる心配はなかったはずだ。
マルクスは生きている (平凡社新書 461)
著者:不破 哲三 |
博物館を見学し終わったら、100円の牛乳を飲んでからポロト温泉へ移動した。この温泉はモール泉のように黒っぽい。お湯が熱くて年寄り向き。露天風呂もないのでゆっくりできずにすぐに休憩室へ行った。汗が止まらない。山へ登らなかった分、温泉で汗をかいている気分だ。
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